玄関のノブを回すと鍵がかかっていた。ポケットを探したが、鍵を忘れたことに気付き、俺はブザーを押した。鍵の開く音がして、
「お帰り。早かったわね。もう少しゆっくりでも良かったのに」 と言われた。『折角焼きたてのパンだから早く帰って来たのに、そりゃあなよな』と思い、 「それは悪うございました。ご期待に添えなくてすみませんね」 と言ってしまった。ルカの表情が曇った。 「そんなつもりで言ったんじゃないの。ごめんなさいね」 ルカは微笑みながらパンの袋を受け取るとキッチンへ行ってしまった。俺の心臓はチクチクと痛みだした。 ルカは、俺のことを気遣って、昨日から大変な想いをしていた。ろくに寝ていない筈だ。明日からの仕事のことを考え、散歩にもと言ってくれたのだ。それに、自分の身体を休める時間だって必要だった筈だ。俺は情けなかった。ルカの気持ちを無視して嫌味を言ったのだから。俺は・・・・・ しょんぼりとクッションに寝転んだ。何か言わなきゃと思うのだが、上手く言葉に出来ないでいた。 俺は仕方なくテレビを点けた。日曜と言うのは、何も面白いものはならしい。何処がおかしいのか理解に苦しむ若手の笑い人たちが、ブラウン管の中でドタバタとやっていた。そういえば、大学時代、演劇部だった実に誘われ、地下劇場に行ったことがあった。スラップスティックとか何とか言っていた気がする。やたら動き回る舞台だった。実は、「凄いだろう」を連発。翌朝まで講釈に付き合わされた。が、俺には理解不能の世界だ。 チャンネルを変え、あれこれとサーチしていたら、馬鹿っぽいふたり組みの笑い人と、子供からおばさんまでも人気が有るという男性タレントが出ている番組をやっていた。俺はチラッと見てテレビを消した。すると、ルカがキッチンから声を掛けた。 「ねぇ、その後に放送する、笑点って番組知っている?」 「笑点?」 「そう。落語家さんが大喜利って言うのをやっていて、座布団を獲得すると、どうしようもない商品がもらえる番組」 そういえば親父が見ていた記憶があった。 「三遊亭とか、桂とか言う人が出ている番組か?」 「そう、そう」 「俺はあんまり見ないけれど、親父が好きで観ていたよ」 「そうなんだ。残念。お父様がいらっしゃったら、話が合ったのに」 「海外でもやっているのか?」 俺は馬鹿な質問をした。 「まさか、やっていないわよ。母がね、ビデオで送ってくれていたの。日本の文化だからって」 「ふ~ん」 「母は、日本の伝統文化を海外に紹介していたの。歌舞伎とか文楽とかね。だからなのかな、文化的なものは洋の東西を問わず好きだし、興味が有るわ」 「落語、生で聴いたことあるの?」 「まだなの。一度寄席に行きたいと思っているわ」 「じゃあ、調べておいてやるよ。誰か好きな人はいる?」 「桂歌丸さん、とか小三さん、が好きよ」 「小三さんは、この間亡くなったよ」 「そう、残念ね。あとは・・三遊亭一門の人も好き。立川一門の人も良いわ。色々聴いてみたいしね」 「わかった」 俺はまた、所在無げにテレビを点けた。 「ご飯できたわよ」 ルカが声を掛けた。 「ああ」 俺は起き上がるとテーブルに着いた。テーブルには野菜と肉団子のスープ。チーズ入りオムレツ。パングラタンが並んでいた。 「冷めないうちに食べましょう」 「いただきます」 「いただきます」 その時テレビから、お馴染みの曲が聞こえてきた。♪チャンチャカチャカチャカチャン、プー~。 「始まったわね」 ルカの視線はテレビに注がれた。俺はモヤモヤした気持ちを抱え、食事をする。が、腹に入らない。ルカの視線はテレビとテーブルの間を行ったり来たりしていたが、俺があまり食べていないことに気づいてしまった。 「食欲ないわね。不味かったかな?やっぱり」 「そんなことはない。とっても美味しいよ」 言ってはみたが、やはり箸はすすまなかった。 「まだ、調子が戻らないか。しょうがないわよ。あれだけ高い熱出たんだもの。無理をしないで食べられる分だけ食べてね」 ルカがニッコリ微笑む。俺は、ルカの微笑が辛くガーッとスープを掻き込んで食べた。そして、案の定むせた。 「純、そんな食べ方して」 背中を叩き、タオルを取りに行くルカ。俺の目には涙が滲んだ。 「大丈夫。気管に入っちゃった?苦しいでしょう」 水とタオルを差し出し、背中をさすってくれる。俺はむせたことより、モヤモヤが解決されない自分に腹が立っていた。何事も無かったように接してくれるルカ。なのに、俺は、気持ちを切り替えることが出来ず、また迷惑を掛けている。情けない。タオルで顔を覆い涙を隠す。 「無理に食べなくても栄養は取れるから。純、ちょっと横になろう。疲れているの。ご飯はもう、良いから、ね」 俺は深呼吸をすると、素直に言う通りにした。ふかふかのベッドに身体を横たえると少し落ち着いた。ルカが薬と水を持ってきた。 「3日間だけ薬を飲んで欲しいそうよ。倒れた時は注射してくださったの。仕事に出るときからで良いって言われたけれど、食欲ないみたいだから、今から飲んでね」 ルカは、薬を置くと出て行った。テレビを消す音と、テーブルを片付ける音が聞こえた。 俺のために一生懸命作ったのだろうに・・・俺が無駄にしてしまった。何て大人気ないことを・・・俺は一体どうしたかったんだ。 薬を飲む気にもなれず、ただ、天上を見詰めた。キッチンで水の流れる音がした。食器を洗っているルカの姿が浮んだ。涙を水と共に流しているのだろうか?俺との共同生活を後悔しているのだろうか? 俺は、ルカが、出て行ってしまう不安にかられた。モヤモヤは不安と言う正体を現してきた。『疲れているのよ』ルカの声が、耳に蘇る。そうだ、疲れているんだ。この半月あまりの出来ことが俺に何らかのストレスをもたらしているのだ。大きなプロジェクトのリーダーとしての不安も有る。部下からの相談を受け、人間として仕事以外の付き合いもした。そう言う変化をもたらしてくれたルカに、俺は甘え八つ当たりをしたのだ。なんと情けなく大人気ない。そんな自分にまた、苛立った。 思考は、堂々巡りを繰り返していた。耳を澄ますと、水の音は消え、レンジのチンという音が聞こえた。やがて、パソコンのキーを叩く軽やかな音が聞こえた。ルカは、パソコンも上手い。キーの音を聞きそう思った。きっと明日の資料を作っているのだろう。俺が倒れ、色々遅れているに違いない。妙に冴えてしまった頭は、ルカの行動から、あれこれ想像を逞しくしていった。 どれくらい経ったのだろう。キーの音が止まり、印刷している様子だ。ふいにドアが開き、 「珈琲飲む?本当は、暫く飲ませるなって・・・純、薬飲んでないの?」 突然ルカの声が変化し、俺をみた。 「しょうがないわねぇー」 ルカかは水を口に含むと、薬を俺の口に押し込み、そして、口移しで水を俺に流し込んだ。舌先から水と薬が喉へ流れ込んでゆく。俺はルカの行動に驚きながらも、うれしさを隠し切れないでいた。 「純、罰として、珈琲は3日間飲んじゃ駄目よ」 そういい残すと部屋を出て行った。ルカは俺の子供じみた行動から、全てを察しているのだった。言葉であれこれ言わないだけ。だから、俺のことはとっくに許しているのだと思った。安心感が広がってゆく。安心感と同時に眠気もやってきた。ルカの唇を想いながら、俺は眠りについていた。
by karura1204
| 2004-12-01 01:49
| 第三章 黒点
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