「ほっ」と。キャンペーン

7月19日 金曜日

 昼から降り出した雨は、台風の影響で激しくなっていた。部下を早めに返した俺は、ひとりオフィスで決済しなければならない幾つかの書類に目を通していた。
 最後の企画書に判を押し、煙草に火をつける。灯った仄(ほの)かな明かりの先に、最終電車が発車するのが見えた。『やはり、車で帰るしかないな』ひとり呟くと、俺は帰り支度をした。雨は更に激しく降っていた。
 エンジンをかけ、台風情報を聞くためにラジオをつけると、0時45分の時刻を告げた。俺は、判っていながら、『今日も午前様か・・・』そう、呟いてしまっていた。
 やがて、やたら喧(やかま)しいDJの声が飛び込んで来た。俺も学生時代には、このDJに耳を傾けていた。だが就職してからは、聞く機会もあまり無くなっていった。それ程仕事が忙しくなっていたのだ。だから今日も、と言うか、連日の残業にいささかうんざりし、判っていながら呟きが声になったのだ。決して、嫌いな仕事ではない。だが、このままで良いのだろうかと思い始めていた。

 高速に乗り、家路を急いだ。ワイパーは役に立っていない。慎重に運転する。アーチ橋に差し掛かった時、人影らしきものを目に止めた。台風で故障でもしたのか、チカチカと点滅している街灯の下だ。最初は、事故かと思い、スピードを緩めハザードを点け進む。近くに来た時、ヘッドライトに映し出され、女がひとり佇んでいることが判った。こんな嵐の高速で何をしているのだ?と怒鳴ろうと思った時、ブルーに輝く瞳が俺を捕らえた。不思議な輝きだった。俺は、出会った瞳に魅入られ、導かれ反射的に助手席のドアを開け、その女を手招いてた。
 黙って滑るように乗り込む女。
 「早く閉めろ」
 手が悴(かじか)んでいるのか、ドアを閉めようとしない。俺は、素早くドアを閉めるとハザードを消し車を発進させた。もたもたしていたら、こっちの車が追突されてしまう。女は、
 「ごめんなさい」
 凍えた声で呟いた。
 暫くの沈黙が続き、その沈黙に耐えられなくなった俺は、軽口を叩いた。
 「バスでも待っていたのか?この辺は、来ないぜ、路線バス。まあ、来たとしてももう、終わった」
 「関係ないわ」
 窓の外に目を向けたままポツリと返してきた。
 「まあ、そりゃあそうだ」
 また沈黙が車内を支配した。
 その空気に、今度は女が耐えられなくなったのか、
 「名前は聞かないの?」
 と聞いてきた。俺は女を真似て、
 「関係ないね」
 と返した。

 女は少し安心したようになった。しかし、俺の好奇心はどんどんと膨らんでいった。大体、捨てられた小猫みたいに震えながら青ざめた頬を濡らして立っていたんだ。男物のトレントコートに赤いハイヒールと言う不釣り合いな格好で・・・・・それなのに『関係ないね』だって、そんなことは嘘だ。本音は質問攻めにしたい。なのに、格好つけて『関係ない』なんて言っている。『何でこんな所に居たの?』『嵐だって言うのに、どうやって此処に来られたの?』『彼氏と喧嘩して降ろされちゃったの?』『随分アンバランスな格好だね、何で男物のトレンチ?』『年はいくつ?』『何をしているの?』下衆の勘繰りの如く、次から次へと疑問が湧いてくる。だって、そうだろう。こんな真夜中に、しかも嵐のハイウエィだ。一歩間違えれば車に轢かれていたっておかしくはない。いや、今まで轢かれなかった事の方が奇跡なのだ。俺が拾って車に乗せたのだって・・・・・・隣で、青紫に変色した唇を震わせながら、何も見えないであろう外をじっと見据えている女を観察しながら俺は考えていた。
 「随分嵐の中に居たみたいなだ。体温が下がっている。唇で解る」
 俺はヒーターを点けた。夏の夜、嵐だから蒸し暑いのだが、今はそんな事は言っていられない。暫くすると、女は、少し温まってきた様子で、唇に赤みが戻りつつあった。それと同時に疲れも手伝ったのだろう、ウトウトし始めた。

 俺の家まで、夜の時間なら車を飛ばせば15分ぐらいで着く距離だ。しかし、ワイパーも役に立たない雨と風。そして、隣の女。意識が集中しない。いや、集中しろというほうが無理だ。結局、1時間以上掛かって家に辿りついた。この不思議な状況の中で事故を起さなかった事も奇跡かも知れない。
 俺は、女を車に残し、ヒーターをかけっぱなしにして、風呂を沸かしに行った。兎に角早く暖めなければと思った。それにしても風呂を沸かすのは何年ぶりだろう。男ひとりシャワーで充分だった。それが、拾ってきた女の為に風呂を沸かしている。それに「そうだ、着替え、着替え」と言いながらクローゼットを探している自分に気付き、何だか奇妙な感覚になった。
 とりあえず、着替えを用意し、女を起こしに行った。寝ていると思っていた女は起きて車の外に出ていた。濡れたシートが気持ち悪かったのだろう。だが俺は内心『お気に入りのシートが・・・』と思っていた。『晴れたらしっかり乾燥させよう』とも。
 女を部屋へ連れて行く。
 「マンションとは名前ばっかりのオンボロアパートだから気にするな」
 チョット自嘲気味に言った。まあ、オンボロはオンボロだから仕方ないが、見栄を張りたかった自分に気付いて胃液が上がるのを感じた。そんな俺の意に反し、女は
 「素敵なマンションよ」
 と世辞とも本音ともつかぬ事を言った。
 「そっか、それは良かった。ありがとう」
心にもない事が口から滑り出す。『何が良かったんだ?』心の中では疑問を投げていた。
 「あ、これ着替え、そのまんまじゃ風邪引いちまう。風呂は直ぐに沸く。それだけが取り柄さ。風呂は玄関の左隣、トイレはその反対だ。ゆっくり温めろよ」
女に着替えを差し出すと俺はキッチンへ行った。女は少し戸惑った顔をしたが「ありがとう」と言って風呂へ行った。

 俺は、珈琲を淹れた。特に趣味らしいものはないが、珈琲には拘っていた。好きな味はモカ、あの酸味が良い。苦味の強いものは好まない。酸味と苦味のバランスがないと駄目だ。口に苦味だけ残る珈琲は嫌いだった。珈琲も人間も、俺はバランスだと思っている。変に偏りの激しいものは疲れる。まあ、勿論憧れもある。それに、学生時代は、俺も偏りの激しい生活だった。その中から俺が出した結論のようなものがあったのだ。自分と言う存在が周りと合わなくなると摩擦が大きくなる。無理して合わせる必要はないが、八方美人だ、蝙蝠(こうもり)だと言われても、あまり突飛な行動は避けたいと思っていた。そんな俺の唯一の拘りが、珈琲だった。淹れ方から豆選びまで全てに拘る。なのに、わざわざ人を招いて淹れてやることはしなかった。これは、俺が俺の為に入れる珈琲だ。人から不味いと言われるのが嫌なのかも知れないが、自分へのご褒美でもある楽しみを人に供する事はないと思っていた。 
 「あら、良い香り」
 その言葉で振り返ると、俺の目に映った女は、肌を上気させ、唇も頬もピンクに染まっていた。雨風にかき乱された髪も綺麗に纏め上げられている。
 「珈琲の香りって良いわね。心が落ち着くわ。私にも頂けるかしら?」
 女の態度は、風呂で温められ、部屋中に広がった珈琲の香りに寄って落ち着きを取り戻したかのように見えた。
 「ああ、良いよ。ただし高いよ、この珈琲は」
 女は一瞬ビクっと身構えた。
 しかし、体勢を立て直すと「良いわ」と言い俺の目を見返した。そのブルーに輝く瞳、その目だ。その目が俺にこの女を車へと誘ったのだ。普段なら決して馬鹿げたことなどしない俺の心に女を乗せろと命じたのだ。 俺はゆっくりとカップを女に渡した。
 「今まで、俺が淹れた珈琲を飲んだ奴は居ない。あんたが最初の客だ。どうだ、美味いか?」
女はカップの中を凝視し一口喉へ運んだ。
 「ええ、美味しい。心に染みるわ」
 「そうか、それは良かった」
 俺は嬉しかった。俺の淹れた珈琲を美味しいといってくれた事が。世辞かも知れない。しかし、世辞でも嬉しかった。不思議な出逢いの女に、初めて人に出したものに美味しいと言ってもらえた事が俺の心の不安を消してくれた気がするのだ。しかし、照れくさかった。だから、女に背を向け窓の外に目をやった。
 女は、両手でカップを押し抱き珈琲を飲んでいる。部屋には珈琲の香りと、喉を静かに通る音が響いていた。どれほどの時間だったのだろう。長いようなそれでいて、一瞬であったかのような沈黙を破ったのは雷だった。青白い光を放った後何処かへ落ちた。夜中である。人々は深い眠りに落ちている。その眠りを覚ます爆音だった。その音にはじかれたように女は立ち上がり、怯(おび)えた瞳を俺に向けた。まだ光っている青白い炎が女の瞳の中に映った。
 「雷、嫌いなの、ここ・・・」
 次の言葉を止めるため、珈琲を女に口移し、唇を塞いだ。女の瞳は驚きと困惑に彩られていた。そっと唇を離し、
 「此処は大丈夫だ。心配するな。雷より俺のほうが心配になったか?だが、今、外に出るのは危険だ。朝までもう少しだ。寝ちゃいな」
 女の瞳は不安の色を濃くした。
 「何も、しやしない。ベッドは隣の部屋だ。俺は此処にいるよ」
 そう言うとソファにもたれ寝転んだ。女は小さく首をかしげ考えた後「お借りするわ」とベッドルームに入ろうとドアに手をかけた。と、その時、俺は、自分でも何故そんな言葉が出たのか判らないが・・・・・
 「なあ、お前、行く所がないんだろ?いいぞ、此処に居て。出て行きたくなるまで、居たいだけ居ろよ。俺は構わない。その部屋、好きに使えよ」
 と、女の背中に向かって言っていた。
 女は、驚きの表情を浮かべ俺を見た。だが、俺がその後何も言わないので、小さく頭を下げると部屋へ消えた。  
 しかし、俺は自分が言った言葉に驚いていた。そして、少しの後悔が頭をもたげていた。『何であんな事言っちまった?俺の珈琲を美味しいと言ってくれたからか?何時でも抱けると思ったからか・・・』さまざまな思いが脳裏を過ぎる。しかしどれも合っているようでどれも違う気がした。最後に辿りついた答えは、『まさか恋?・・・・まさかな、この俺が?』ひとり可笑しくなって笑った。その笑いは声になっていたらしく、女が顔を出した。不思議そうに俺を見ている。
 「なんでもないよ。チョット思い出し笑いをした。起しちまったか?悪かった。俺ももう寝るよ」
と言って電気を消し、目を閉じたが女は立ち去る気配がない。
 「何か用か?」
 俺は少し苛立ち聞いた。
 躊躇(ためら)いがちに、女は、
 「眠れないの」
 と消え入るような声で呟いた。俺は、意味が解らず、
「身体持たないぞ、横になるだけでも違う、あっち行けよ」
 「隣に・・・隣にいてくれませんか?」
 「え?!」今度は俺が面食らった。さっきの態度とは180度違う女の心が俺には解らなかった。これは、俺に暗に『抱いてくれ』と言っているのかと疑った。
 「違うの。そうじゃないの・・・・・・ごめんなさい。おやすみなさい」
 女は踵を返し、部屋へと戻った。俺は女の言葉の意味を考えたが、俺には理解できなかった。だが、妙に気になって部屋へ行った。女は、ベッドに蹲る(うずくま)ようにして、肩を震わせていた。
 「泣いているのか・・・?」
 女の肩が大きく揺れた。俺は傍へ寄ると、女の肩を抱きしめた。
 「解った、朝が来るまでこうしていてやる。だから、安心して眠れ。良いな。何も考えるな」
 女は俺の腕に身を任せ頷いた。俺は子供をあやす親のように女の背中をトントンと叩いてやった。女は、俺の腕まくらに安心して眠りについた。その様子を見ながら俺は、この女が愛しいと感じた。何故だか解らないが、そう感じたのだ。
 月明かりに照らされ、女の顔が青白く映し出されていた。その瞳には涙の跡が滲んでいた。俺は、女の瞳・頬にそっと触れ、暫く見詰めていたが、俺も何時しか眠っていた。
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# by karura1204 | 2004-12-01 02:05 | 第一章 夏の嵐